詩と音楽、そして絵画――芸術の多様なる所産のすべて――を、単一にして同一なる一定量の想像的思考が、絵画であれば色彩――音楽であれば音――詩であれば律動する言葉という一定の技術的性質を補われたうえで、異なる言語に翻訳されたにすぎないものとみなすのは、多くの通俗的批評の陥穽である。このような見方によると、芸術の感覚的要素は、芸術が擁するほぼすべての本質的に芸術的なるものとともに、関心を寄せるに値せぬものとされてしまう。対して、これとは反対の原理――すなわち各芸術の感覚的素材は、他のいかなる形式にも変換不可能な、独特の美的位相ないし性質を、つまり他とは全く異なる一連の印象をもたらすという原理――をはっきりと理解することは、あらゆる真の審美批評の第一歩である。それというのも、芸術は純粋感覚に働きかけるのではなく、ましてや純粋知性に働きかけるのでもなく、諸感覚を通じて「想像的理性」に働きかけるのであるからして、感覚の才の種類の違いに応じて、審美的考察の対象となる美の種類にも差異が生じるためである。したがって、それぞれに固有の伝達不可能な感覚的魅力を有するそれぞれの芸術は、想像力に働きかける独特の方法を有し、素材に対してそれぞれに特有の責任を負う。審美批評が担う役目のひとつは、これらの制約を規定することにある。それは、ある芸術作品が、特有の素材に対する責任をどこまで満たしているかを評価することであり、一枚の絵画のうちに、単なる詩的思考でも私的感情でもなく、かといって色彩やデザインにおける伝達可能な技術的手腕の単なる産物でもない、真に絵画的な魅力を認め指摘することであり、一篇の詩において、単に叙述的でも瞑想的でもなく、律動する言語を創意あふれる仕方で取り扱うことで生まれる、真に詩的な性質――歌唱における歌の要素――を定義することであり、一曲の音楽のうちに、音楽的魅力を――音楽を我々に運び伝える特別な形式から切り離しうるいかなる言葉も、感情や思考は別として、提示することのない、あの本質的な音楽を指摘することである。

レッシングが『ラオコーン』において提示した、彫刻と詩の領域に関する分析は、美的なものの多様性をめぐる以上のような哲学に対する極めて重要な貢献であった。しかしながら、このような事柄を真に正しく評価することは、以上のような芸術決疑論の体系全体に照らされて初めて可能となる。ところでこの真実を最も強調しなければならないのは、絵画批評の場合である。なぜならば、あらゆる芸術を詩の形式に還元する、あの誤った一般化が最も広く行われているのが、絵画をめぐる大衆の判断にほかならないからである。一方では、知性を通じ知性自体に働きかける描写や筆触を、単に技術的に習得できれば事足るとし、他方では、同じく純粋知性に差し向けられた、単に詩的な、あるいはいわゆる文学的興味がすべてであるとする――これが大半の観客や、多くの批評家の考え方である。未だかつて、彼らが、独創的ないし創造的な手つきで描かれた純粋な線と色彩の間に存する、あの真の絵画的性質(これこそ画才を有することの唯一の証である)を認めたことはない。この性質は、オランダ絵画においてはほぼ常にそうであり、またティツィアーノやヴェロネーゼの作品においてもしばしばそうであるように、絵画に付随する主題のうち明らかに詩的であるいかなるものからも、甚だしく独立している。それはまさしく線描法――仮に本当の解剖学的比率を知らぬとしても、そこにおいてはどのようなものであれ、いかなる詩も、どれほど抽象的で晦渋な観念も、目に見える場面やイメージとして浮かび上がるという、あの画家特有の気質ないし体質から生み出されるデザインである。それはまさしく彩色法――ティツィアーノの《レースの少女》において、ドレスや皮膚、空気を貫く、かろうじて知覚しうる金色の1糸が織りなすかのような光の交差――清新なる心地よい物質的性質で、事物の生地全体を染め上げる染色法である。そしてこの線描法――ティントレットが描く空飛ぶ人物や、ティツィアーノが描く森の枝々が、空中で織りなす唐草模様アラベスク、この彩色法――ティツィアーノの《レースの少女》やルーベンスの《十字架降架》を満たす、大気に包まれた光と色彩の魔術的状態――これらの本質的に絵画的な性質は、何よりもまず感覚を楽しませなければならない。それもヴェネツィアン・グラスの欠片のように、直接的かつ感覚的に楽しませるのでなければならない。そしてこの本質的に絵画的な性質が、製作者の意図において、その向こうにある詩や知識の媒介物となるのは、その詩や知識がどのようなものであれ、ただこの心地よさを介してでなければならない。偉大な絵画が与える第一印象は、陽光や影が壁や床に偶然織りなした一瞬の戯れと変わらぬ、不確実なメッセージである。実際偉大な絵画も、それ自体としては、そのような照光の空間にほかならない。そこに差す光は、東洋の絨毯に様々な色が織り込まれるようにして絵画に取り込まれ、しかしながら絵画の表面においてより精妙なものとなり、ただの光以上に繊細かつ精巧に扱われる。こうしてこの第一にして不可欠の条件が満たされたとき、我々は、精妙なる上昇的漸次変化により、詩が絵画に到来するさまをたどることを許される。日本の扇絵を例に挙げれば、我々が最初にそこから得られるのは、ただ抽象的な色彩のみである。続いて、そこに染み込んだ花々の詩が、わずかばかり感じ取られる。そして時には、完璧な花の絵が得られる。同様にして、さらに歩を進め、ティツィアーノに分け入ると、我々はそこに、《アリアドネ》に込められた彼の詩が得られるのと同じようにして、ヴェネツィアにある《聖母の神殿奉献》に描き込まれた、絹のガウンを纏い寺院の階段を上る、古風でちっぽけな人物のうちに、わずかばかりの、まさしく子供らしいユーモアを認めることとなる。

このように各芸術がそれぞれ特有の種類の印象、および翻訳不可能な魅力を有するなかで、諸芸術の究極的な差異を理解することこそ、審美批評の端緒である。もっとも、所与の素材を扱う特有の手法において、各芸術が、ドイツの批評家が異なるものへの憧憬アンデルス・シュトレーベンと呼ぶものにより他の芸術に移行することがあるのは、容易に見てとれる。それはおのれに固有な諸制約から一定程度離れることであり、それにより諸芸術は、互いに代理を務め合うことこそないものの、相互に新たな力を与え合うことを許される。

このようにして、ある種のこの上なく快い音楽は、常に形象へと、絵画的鮮明さへと近づこうとしているように思われる。建築もまた、特有の規則――真の芸術家であれば知りすぎるほど知っているように、極めて晦渋な規則――を有するが、時には、アレーナ礼拝堂2におけるように、絵画に求められる諸条件を満たそうとすることがある。あるいは、フィレンツェにあるジョットの鐘楼が備える、非の打ちどころのない調和のように、彫刻の諸条件を満たそうとすることもある。そしてまた、階段が織りなす異様な螺旋のなかを、放蕩の日々を送る俳優たちが互いに姿を見られることなくすれ違うことがあらかじめ意図されているかのような、ロワール地方の古城シャトーにあるあの奇妙な螺旋階段におけるように、建築はしばしば真の詩を見出すこともある。加えて、記憶や単なる時間の効果にすぎないものの詩もあり、それにより建築はしばしば大きな恩恵を受けている。このように彫刻もまた、純粋形態の厳しい制約から抜け出し、色彩ないしその等価物へと向かうことに憧れる。同じく詩も、様々なかたちで、他の諸芸術から示唆を得ている。ギリシャ悲劇とギリシャ彫刻の間や、14行詩ソネット浮彫レリーフの間の、あるいはフランス詩が概して版画との間に呈する類比関係アナロジーは、単なる言葉の綾以上のものである。さらにあらゆる芸術は、共通して音楽の原理に憧れる。音楽こそが、典型的な、あるいは理想上完璧な芸術であり、あらゆる芸術が、芸術的なるあらゆるものが、芸術的性質を帯びるあらゆるものが抱く、素晴らしき異なるものへの憧憬が目指すところである。

すべての芸術は絶えず音楽の状態に憧れる。なぜならば、音楽以外のあらゆる芸術作品においては、形式と内容を区別することが可能であり、また悟性は常にこの区別を行いうるが、この区別を消し去ることを芸術は絶えず試みるからである。例えば、一篇の詩の単なる内容――その主題、所与の出来事や状況――や、一枚の絵画の単なる内容――ある出来事の実際の状況、ある風景の実際の地形――などといったものは、それらを取り扱う形式ないし精神なしでは無に等しかろう。この形式なるもの、対象を扱うこの手法は、それ自体が目的となり、内容のあらゆる部分を貫くであろう――これこそあらゆる芸術が絶えず追い求め、度合いこそ様々であるが成し遂げているところのものである。

以上の抽象的な言語も、実例を考えれば十分明快になるであろう。実際の風景では、長々と続く白い道が、丘の稜線にて突如姿を消す。これはルグロ氏3の手になるある蝕版画エッチングの内容である。ただしこの蝕版画においては、同じ道が、表現に内在する厳粛さで満たされている。画家がその道をじっと見つめたのか、あるいは一瞥したにすぎないのか、ある例外的な瞬間に目にしたのか、あるいはもしや自分自身の気分によってそれを捉えたのか分からないが、いずれにせよこの画家は、おのが作品の全体を通じ、この道を、事物の本質にほかならないものとして提示している。時に、嵐の日の光がもたらすつかの間の色合いが、ぱっとしない、あまりにも見覚えのある場面に、想像力の深淵から汲み上げられたかのような性格を帯びさせることがある。そのようなとき、この特別な光の効果、干し草の山、ポプラの木々や牧草の生地に、金色の糸が織り込まれるこの突然の出来事は、その場面に芸術的性質をもたらしていると、まるでこれは絵画のようだと、我々は言うであろう。そしてこのような偶然のいたずらは、それ自体としてはあまり目立つところのない風景に、最も頻繁に見受けられる。なぜならば、そのような景観において、あらゆる物質的細部は、つかの間の明かりの、あの霊感をもたらす現出に至極容易に吸収され、その明かりにより、隅から隅まで、新しくかつ快い効果へと高められるからである。画趣をもたらす諸条件の大半において、フランスの河岸がスイスの渓谷に勝るのはそのためである。フランスの河岸では、ただの地形のような単純な素材が価値に乏しく、またあらゆるものが、それ自体として実に純粋無垢のまま静謐のうちにあり、単なる光と影が、すべてを単一の支配的色調へと転調させる務めを至極容易に成し遂げる。他方、ヴェネツィアの景色は、その物質的諸条件のうちに、強烈な色彩の、喧しいほど明瞭なものを多分に含んでいる。しかしヴェネツィア派の巨匠たちは、それらが少しも重荷とならないことを身をもって示した。背景に広がるアルプス山脈から、彼らは、寒色や心を鎮める線といった、ただいくつかの要素のみを抽出し保持するにとどめた。また彼らは、その実際の細部、すなわち風に吹かれる小さな茶色の塔や、藁色の畑、森の唐草模様アラベスクなどを、ただ彼らが描く男女の現前に伴い当然奏でられなければならない音楽の調べのようなものとして用い、ある種の風景のみが秘める精神ないし本質を――純粋精神の、あるいは半想像的記憶の故郷を――我々に提示する。

詩もまた、第一段階においては、単なる知性に向かう言葉を用いる。大抵、詩は一定の主題ないし状況を扱う。時には、ヴィクトル・ユゴーの詩においてしばしばそうであるように、詩は、道徳的ないし政治的希求の表現のうちに、高貴にして至極正当な機能を見出すかもしれない。このような場合、内容や主題といった単に知性に訴える要素が、霊感をもたらす芸術的な精神にどれほど浸されていようとも、悟性は十分容易に内容と形式を区別する。しかしながら詩の理想的典型は、この区別を最小限にとどめたものに存する。それゆえ抒情詩は、まさに、内容そのものから何かを差し引くことなしには、内容と形式を引き離しうる程度が最も小さいがゆえに、少なくとも芸術的には、最高位の、最も完璧な類の詩である。そして、今述べたようなこのような詩の完璧さは、単なる主題のいわば隠蔽ないし曖昧さに、ある程度は依拠しているようにしばしば思われる。そのため、ウィリアム・ブレイクの手になる最も想像力豊かな作品群のうちの数篇において、またシェイクスピアの歌においてしばしばそうであり、とりわけ、劇全体の燃え立つような力と詩が暫時本当の音楽の旋律に変ずるかのような、『尺には尺を』のマリアーナの場面にて歌われるあの歌4に顕著にみられるように、意味は、悟性がその道筋を明確にたどりえない経路により我々にもたらされる。

この原理はまた、例えば家具や衣服、暮らしそのものや、立ち振る舞い、話し方、日々の交際の端々など、程度の差こそあれ芸術的性質を有するすべてのものに通用する。これらのものも、それらがなされる仕方に感化されるとき、それ自体として価値を獲得し、賢明な人にとっては快く魅惑的なものとなりうる。実際そこにこそ、発話や立ち振る舞いや服装の瑣末事を「それ自体を目的とするもの」へと高め、それらの瑣末事が行われる際、それに神秘的な優雅さと魅力を与える、一時代の流行と呼ばれるもののうちにこそ、価値ある真に魅力的なものが存する。

そしてそれゆえ芸術は、単なる知性から独立を保とうと、純粋知覚の対象となろうと、その主題ないし素材に対し自らが負っている責任を免れようと、常に努めている。詩と絵画の理想例とは、その作品の構成要素が互いに分かちがたく熔接されており、そのためその素材や主題がもはや知性に対してしか訴えかけず、また形式も同様に目や耳に対してしか訴えかけず、しかしながら形式と内容が一体となり、あるいは同一化し、「想像的理性」に対し、すなわちそれにとってはあらゆる思考や感覚が、知覚可能な対応物ないし象徴と双子関係をなすところの、あの複合的な能力に対し、単一の効果を呈する代物である。

この芸術的理想、形式と内容の完全なこの同一化を最も完璧に成し遂げるのは、音楽芸術である。その理想的な最高の瞬間においては、目的と手段、形式と内容、主題と表現は、明確には区別されない。両者は互いに含みあい、互いに浸透しあう。そして音楽に、すなわち音楽が完全な瞬間に呈する状態に、すべての芸術は絶えず向かい憧れているように思われる。ゆえに、完成された芸術の真の典型ないし尺度とは、あまりに多くの者が詩であると思い込んでいるが、それは誤りであり、正しくは音楽である。したがって、各芸術にはそれぞれ伝達しえない要素や、翻訳しえない類の印象、「想像的理性」へと至る特有の流儀がある一方、それでも芸術は、音楽の法則ないし原理を、ただ音楽のみが完全に実現しうる状態を追い求め、苦闘を続けているといえよう。そして審美批評の主要な機能のひとつである、古いものであれ新しいものであれ、芸術作品を扱うこととは、それぞれの作品が、このような意味において、どれほど音楽の法則に肉薄しているかを評価することである。

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いかなる画派も、ヴェネツィア派ほど、絵画芸術が必然的に有する制約を、誤りなく、しかも本能的に理解し、また絵画における絵画的なものの本質を的確に捉えはしなかった。すると以上で述べた一連の思索も、ジョルジョーネをめぐる数頁に附す導入部として、あながち不適当ではないのかもしれない。近年の鑑定により、かつて彼の作品とみなされていたものの多くが他人のものと判明したとはいえ、それでもなお、他のいかなる画家と比べても、彼自身および彼の芸術について我々の知るかぎり、彼ほど完璧にヴェネツィア派の精神を体現している者はいない。

ヴェネツィア絵画の端緒は、ビザンツ様式装飾の、堅苦しく半ば未洗練な華々しさと結びついており、ドゥオーモ・ディ・ムラーノやサン・マルコ寺院の壁を飾る、大理石と金のごつごつとした表面に、人間的な表現を少々加えただけのものにすぎなかった。そしてその後の発達においても、首尾一貫して、建築的効果に次ぐ副次的な地位に常に甘んじていたために、ヴェネツィア派の作品はいつまで経っても初期の影響から逃れられなかった。自然主義や宗教的神秘主義、哲学の諸理論に支えられることがなく、それゆえそれらのものに惑わされることもなかったため、ヴェネツィア派にはジョットもアンジェリコも、ボッティチェッリも生まれなかった。何世代にもわたりフィレンツェ派の芸術家たちにとり多大な重荷となっていた、思考と感情の重荷を免れていたため、彼らヴェネツィア派の画家たちは、カルパッチョやベッリーニに至るまで、厳格に守られていた彼らの芸術の領分を見失うことも、絵画は何よりもまず装飾的であり、視覚に働きかけるものであり、壁面の色彩空間であらねばならず、絵画は、その中で、その合間で、より高尚ないかなる思想や詩、あるいは宗教的夢想が自らの役割を果たしていようとも、壁に用いられた希少な大理石の模様や、そこに差す光と影の偶然の交錯――これが始まりであり、また終わりでもある――に比べれば巧みに色彩が配合されているものの、それ以上のものではないということを忘れることも、一度としてなかったように思われる。そしてその末に、おのが芸術のあらゆる技術上の秘密を完全に習得し、「神の火が散らす火花」以上の何物かを分け与えられて、ジョルジョーネがやってくる。彼は風俗画の、祈祷に用いられるのでもなければ、寓意的ないし歴史的な教えを秘めているのでもなく、――調和した家具ないし風景に囲まれた、現実の男女からなる少人数の集団――現実生活の断片、会話や奏楽、遊戯などといったものが、遠くから見た生活の一場面であるかのように見えるほどまでに洗練され理想化されたかたちで描かれた、容易に持ち運べるあの絵画の創始者である。単なる建築的機構の中で、これまで与えられた場所を素直に埋めていた、より巧みに調合された色彩が織りなすあれらの空間を、ジョルジョーネは壁から取り外した。彼はそれを、熟練した彫刻家某氏の手を借り額縁に収めた。写本に書かれた一篇の詩のように、あるいは楽器のように、自己教育のために、もしくは刺激や慰めを得るために、随意に用いることができるよう、まるで生気を吹き込まれた霊のごとく私室に入り込み、選りすぐりの香気で室内の空気を豊かにし、一日中、はたまた一生涯、人間と同じようにして我々と共に暮らすよう、それを人々が容易に移動させられるよう計らったのである。これに類する芸術、それ以来人類の歴史において実に大きな役割を演じてきた芸術の創始者は、ほかならぬジョルジョーネである。とはいえ彼のうちにも、絵画芸術が抱える本質的諸限界への理解において、あの古いヴェネツィア派の明晰さと正しさが、損なわれることなく生きながらえていた。そして彼は、おのれの絵画作品に、異様に豊かで張りつめた生活から直接取ってきた、張りつめた詩を浸透させる一方で、主題の、もしくは主題の位相の選択において、単なる主題を絵画的デザインに、すなわち絵画の主要目的に従属させている点において、既に私が説明を試みた、あらゆる芸術が音楽に対し――内容と形式の完璧な合一に対し――抱く、あの憧憬の典型である。

ジョルジョーネはティツィアーノより少しだけ早く生まれたが、歳はかなり近かったため、年老いたジョヴァンニ・ベッリーニのもとで学んだこの相弟子二人は、ほぼ同時代人といえよう。ティツィアーノに対するジョルジョーネの立場は、ブラウニング氏の詩におけるダンテに対するソルデッロともいうべき関係にあった。ティツィアーノは、ベッリーニのもとを去ると、今度はジョルジョーネの弟子となる。ジョルジョーネが墓で眠りについたのちも、彼は60年以上にもわたり仕事を続けた。その結果、ヨーロッパの大都市でその成果の一部を持たない都市はほぼ皆無である。しかし彼よりわずかに年上で、真におのれの手になる作品はごくわずかしか残さなかった件の男は(そのうち今なお残されいるのは、厳密に調べれば、ソルデッロが見事な詩の一断片をしか残さなかったように、ほぼ1枚の絵画だけであるらしい)、しかしながら、基本的な動機と原理において、あの精神を――それ自体、ヴェネツィア派芸術の長きにわたる試みの末、最後に獲得されるものである――ティツィアーノが全生涯にわたる活動で広めた、あの精神を表している。

そして案の定、ジョルジョーネが勝ち得た名声の輝きには、どこか現実離れした、幻のごとき何物かが常に混ざり込んでいた。様々なコレクションにおいて彼の名と紐づけられている、しばしば実に魅力的な数多くの作品――線描画、肖像画、田園画――が、彼に対し正確にはどのような関係にあったのかは、初めから詳らかでなかった。それでもなお、ドレスデン、フィレンツェ、ルーヴル美術館にある6枚から8枚ほどの有名な絵画は、疑いなく彼の作であるとされていた。そして、強いていえばこれらの絵画のうちにこそ、旧来のヴェネツィア派らしい人間性の輝きの一端が遺されているなどと言われていた。しかし今日では、それら6枚から8枚の絵画のうち、確実にジョルジョーネの手で描かれたものはたった1枚しかないことが知られている。このような議論を扱う透徹した科学がようやく到来したが、それも他の例と同様、我々にとって過去をより現実らしいものとするのではなく、むしろ我々が思いのほか過去を所有していなかったという事実を確かなものとするばかりであった。ジョルジョーネが当時またたく間にとどろかせた名声が依拠するところの作品、すなわち瞬間的効果を求めて制作された作品の多くは、十中八九、およそ彼の時代のうちに失われてしまったに違いない。ヴェネツィアにあるドイツ人商館フォンダコ・デイ・テデスキの正面に描かれたフレスコ画も、その一例である。しかしながらその深紅の跡は、今もなおリアルト地区の景観に、奇妙な筆触で壮麗さを描き加えている。さらにその後、16世紀半ばごろに障壁ないし境界地ともいうべき時期があり、そこを経る際言い伝えがうまく継承されなかったために、ジョルジョーネの人と作品の正しい輪郭がぼかされてしまった。真贋の判断において批判的な基準を持たない、裕福な美術愛好家たちのあいだで、ジョルジョーネの作といわれる作品を収集するのが流行し、数多くの贋作が流布するようになった。そして今や、人々の称賛の的に対する過分な要求が織りなした、伝承上の卓越した評判は、「新たなるヴァザーリ」の書物5において、その糸一本一本に至るまで仔細に調べ上げられた。かくして、ヴェネツィア派の巨匠たちのなかでも最も鮮烈にして刺激的なる人物、あのかつての暗澹たる時代の最中、生きた炎と見えた者の残滓は、彼を扱う近年の鑑定家たちの手により減らされ続けた挙句、ほぼ名前のみとなるに至った。

それでもなお我々の手元には、なぜ伝説がその名を上回るほどに肥大化したのか、なぜその名が他人のとりわけ優れた作品に付与されることが多々あったのかを知る手掛かりが、十分に残されている。ピッティ宮殿にある《合奏》では、僧衣を纏った剃髪の修道士がハープシコードの鍵に触れており、その背後に立つ聖職者がヴィオールの首を握り、そして羽根付き帽子を被った第三の男が、正しい音程で歌い出そうと身構えているように見受けられるが、この一枚は疑いなくジョルジョーネの真作である6。立てた指の輪郭、羽根飾りの筆致、細番手の麻布を織りなす糸そのものといった、記憶にしっかりと根を張るが、その後たちまち、この世のものとは思えぬあの静謐な輝きの中へとすっかり消え去ってしまうものたち、またとりとめのない音の波を捉え、唇や手に定着させた手腕――これらはまさしく巨匠自身の手になるものである。それゆえ批評は、従来ジョルジョーネのものと思われていた実に多くの作品を贋作とみなす一方、この一枚が有する資格を確固たるものとし、この作品を、美術界における最も貴重な品々のうちにとどめおいたのであった。

注目すべきは、この《合奏》の「示差的特徴」、すなわちデザインにおいても、出来栄えにおいても、人物類型の選択においても、終始一貫して完璧さが行き渡っていることが、「新たなるヴァザーリ」にとって、ジョルジョーネの真作か否かを見極める基準となっていることである。この作品に、彼が他の画家たちに及ぼした影響を説明するに十分なものと、熟達の真の証を見て取った同書の著者らは、ルーヴルにある《聖家族》を、いくつかの点で上述の基準に達していないことから、ペッレグリーノ・ダ・サン・ダニエーレ7の作としている。しかしそれらの点も、透明な大気――画面全体を生気で満たし、聖なる登場人物たちの目や唇、衣服までもを、何やら吹きすさぶ風を受けた明るさと活力のごときもので満たす、透明な大気――が観者にもたらす奇妙な魅惑の享楽を、ほとんど損ないはしない。遠くにはっきりと見える青い峰は、あたかもその清澄な空気の目に見える証であるかのようである。同様に、ルーヴルに収められている別の有名な一枚、すなわちこれらの貴重な品々のことを思うにつけその画業が思い起こされる某詩人8が、14行詩9の主題としたところのもの――《田園の宴10》もまた、セバスティアーノ・デル・ピオンボ11の模倣者に帰せられている。ヴェネツィア美術アカデミーにある《嵐》(右から左へと次第に晴れゆく空が快い効果を上げていないわけではないが、手の加えられていない左方の一隅は、ごく些細な欠如といえるかもしれない)は、パリス・ボルドーネ12、もしくは「16世紀の優れた某画工」に帰せられている。ドレスデン美術館からは、騎士の壊れた籠手が、当時よく知られていた何らかの物語の一場面を示しているように思われ、その物語の残りを聞きたい気持ちにさせられる《貴婦人を抱擁する騎士》が、「ブレシアの手」になるものと認定され、《ヤコブとラケルの出会い》がパルマ13の弟子によるものとされている。さらに我々は《試練》、および宝石のごとき水を湛える《モーセの発見》を、それらの魅力にもかかわらず、ベッリーニの手になるものらしいと認めるよう迫られている。

このように批評は、かくも自由勝手に彼の真作の数を減らしたが、既によく知られていたこの男の生涯と人となりの大枠に対し、何ら重要なことを付け加えはしなかった。ただ一、二の日付と一、二の事情を、ほんの少し正確に訂正したばかりである。ジョルジョーネは1477年までに生まれ、幼年時代をカステルフランコで過ごした。そこはヴェネツィアン・アルプスの岩山の末端が、どこか庭園的な優美さを呈しつつ、平原へとロマンティックに崩れゆく場所であった。ヴェデラーゴなる農家の娘を母に持つ、バルバレッリ家の私生児であった彼は、早くから名高い人士らの――社交界人の集まりに出入りしていた。そして人々の類型や所作にみられるあの差異に通暁するようになり、その理解は服装の差異にまで至った。社交界は、そのような差異を――ピッティ宮殿の《合奏》にみられるような「示差的特徴」を――知るのにこの上なく適した場所である。彼の家からさほど遠くない場所に、かつてキプロス女王であったカテリーナ・コルナーロ14が住んでいた。また、今なお残る塔には、名高き傭兵隊長コンドッティエーレ――文明が急変する最中、中世習俗の画趣に富む残滓として生き残っていた――トゥツィオ・コスタンツォが住んでいた。ジョルジョーネは彼らの肖像を描いた。そしてトゥツィオの息子であるマッテオが夭折したときには、彼を悼み、カステルフランコ教会に建てられた礼拝堂の装飾を担った。おそらくその際、ジョルジョーネは、彼の真作のうちでも最も卓越した、未だ同じ場所では見られない祭壇画を描いたのであろう。そこには軍人聖人リベラーレの姿が描かれているが、その元となった小さな油彩習作には、繊細にきらめく銀灰色の鎧が描かれており、これはナショナル・ギャラリーの至宝のひとつである。そしてその姿のうちに、かつての人々は、おそらくは優美であったろう画家自身との類似を認めたのであった。その地へと、最後には、夭折したものの有名であった画家自身がヴェネツィアから運ばれ、故郷に埋葬された。34歳のころ、いつものように音楽を奏で友人たちを楽しませていた、いつもと変わらぬ社交界の集まりで、彼はとある女に出会い、いたく夢中になり、「二人とも大いに喜び」、「互いに恋に落ちた」とヴァザーリは述べている。そしてこれに関する2つの極めて異なる伝説は、次の点において一致している。すなわち、彼が命を落とすに至ったのが、この女の所為であるという点である。リドルフィ15が述べるところによれば、ジョルジョーネは、彼女を弟子に奪われ、二重の裏切りを嘆くあまり死に至り――ヴァザーリによれば、この女はペストに罹っていたのを隠しており、ジョルジョーネは、いつものように彼女のもとを訪ねたところ、彼女の接吻を受け、命を脅かすほど重度の感染を被り、まもなく亡くなったという。

しかし、近年の鑑定によりジョルジョーネの現存作品がこのように限られたものとなりはしたものの、たとえ彼にまつわる事柄のうち、現実の要素と伝説の要素が区別されたとしても、すべてが片づいたわけではない。それというのも、偉大な名と結びつけられている事柄の多くにおいては、現実ではないものが、得てして大変刺激的であるからである。ゆえに審美的な哲学者には、現実のジョルジョーネとその真正なる現存作品に加え、ジョルジョーネ的なもの――彼のものと推定されていた作品の多くの真の作者とみなされている、かくも多様なるあの人々のうちに働いていた影響、精神ないし芸術類型――が残されている。それはまさに流派というべきものであり、正誤を問わず、彼によるものとされているあの魅惑的な作品のすべてが、またその線描とデザインが様々な理由によりジョルジョーネのものとして尊ばれているところの、誰とも知れぬ、あるいは詳らかでない画工の手になる数々の模作や変奏が、さらには、今なお彼の面影を人々の心にとどめている原因であるところの、彼が当時の人々に与えた直接的印象がまさしく彼のもとから我々の時代へと続いており、それをたどることにより原型となるイメージを思い描けるような、主題とその扱い方をめぐる幾多の伝統が、ひとつとなった代物である。かくしてジョルジョーネはヴェネツィアそのもののいわば化身、ヴェネツィアの鏡像ないし理想が投影されたものとなり、かつてのヴェネツィアが秘める強烈なものや好ましいもののすべてが、この驚嘆すべき青年の記憶の周囲に結晶化するに至ったのである。

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最後に、「新たなるヴァザーリ」によるあの否定的な批評を受けてなお、我々の多くにとって、フィレンツェやドレスデン、パリにあるあの有名な絵画と結びついているであろう、このジョルジョーネ派と呼びうるものの諸特徴の一端を説明することをお許し願いたい。それらの作品においては、ある芸術上の理想が明確に示されており――ヴェネツィア派の作品全般にであれ、現代の作品にであれ、どこに見出されようと、我々がそれをジョルジョーネ的と解するような、芸術における独特の目的と手段の観念――、そしてそれらのなかでも《合奏》こそが、ピッティ宮殿に収められた、疑いなくジョルジョーネによるものであるあの作品こそが、その典型例であり、流派と師範のつながりを証す証拠である。

既に述べたように、芸術作品の内容ないし主題と形式との間で起こるある種の相互浸透、すなわちただ音楽においてのみ完全に実現される状態は、芸術のあらゆる形式が永遠に憧れるところの状態である。絵画芸術においては、この理想的状態への到達、主題と色彩およびデザインの、あの完璧なる相互浸透は、言うまでもなくその主題ないし主題の位相の巧みな選択に多分に依拠している。そしてそのような選択こそ、ジョルジョーネ派の秘密の一端をなすものである。ジョルジョーネ派は風俗画の流派であり、主として「田園画/絵筆による牧歌ペインテッド・イディル」を扱ったが、この流派は、このような絵筆による詩の制作に際し、線描と色彩による完璧な表現へと、絵画の形式へと、この上なく容易にかつ完全にその身を委ねるような主題を選ぶことにおいて、驚嘆すべき巧みさを発揮している。それというのも、ジョルジョーネ派の作品は、絵筆による詩には違いないが、明確な物語なしに伝えられる類の詩に属しているのである。その師範は、一瞬の動作――実に堂々と首を反らし、鎧の紐を縛る動作――気絶する婦人――死に瀕する者の唇から死そのものとともに受け取った接吻のごとく、俊敏に交わされる抱擁――立体像のあらゆる側面を一挙に提示することで、絵画は彫刻と同じくらい完全に物体を提示しうるや否やという、あの決疑論的な問いをに答えを出す、鏡と磨かれた鎧と水の、一瞬の協働――を再現する際の決断力や容易さ、迅速さにおいて卓越している。突然の行為、思考の素早い推移、つかの間の表情――このようなものを彼は、ヴァザーリが彼の特質とみなしたあの溌溂さ、彼の言葉を借りれば「ジョルジョーネ的な火」とともに捉える。ところで、最も高尚な類の劇詩が理想とするものの一端は、それが我々に、極めて意味深く生き生きとした瞬間を、もしかすると単なる身振りや面持ち、微笑み――ごく短時間の、まったくもって具体的な瞬間――にすぎないかもしれないが、しかしそこには長い歴史上のあらゆる動機や関心、あらゆる影響が凝縮されており、過去と未来を、現在の強烈な意識のうちに取り込んでいるかのような瞬間を、提示することにある。そのような理想的な瞬間を、ジョルジョーネ派は、あの熱狂的な、騒然たる色彩を帯びた、かつてのヴェネツィア市民たちの暮らしのなかから、驚くべき巧みさで選び取っている――えもいわれぬ時間停止であり、このようにして進行を阻まれた時間は、そこに身を置く我々を、存在の充溢をまるごと眺める観客のごときものとなす。それは人生の完璧な抽出物ないし精髄ともいうべき瞬間である。

既に述べたように、このようなあらゆる芸術が真に憧れているのは、音楽の法則ないし状態に対してである。またジョルジョーネ派においては、音楽そのものの完璧な瞬間が、すなわち音楽を演奏したり聞いたりすることや、歌唱および伴奏が、それ自体顕著な主題として取り上げられている。来訪者に実に強い印象を与えるヴェネツィアの静寂を背景に、当時イタリア音楽の世界が形成されつつあった。ピッティ宮殿の《奏楽》は、他のあらゆる観点からと同様、主題の選択において、自身素晴らしい音楽家であったジョルジョーネがその影響を及ぼした全作品の典型である。また、素描においても、仕上げられた絵画においても、様々なコレクションにおいても、我々は、様々な複雑な変形――音楽に聞き入り恍惚となった男、池のほとりにて、魚釣りに興じる人々の傍らで聞こえてくる音楽、あるいは井戸の水を汲む水差しの音と混ざった音楽、川のせせらぎを越えて、もしくは羊の群れのなかから聞こえてくる音楽、楽器の調律音――まさにプラトンがあの独創的な一節で描いたように、楽音のどれほど小さな音程の違いをも、大気に響くどれほど小さな音の振動をも聞き逃さないよう耳を傾けているかのような、あるいは、甘美な音――偶然訪れた訪問先で、馴染みのない部屋を通り抜ける際の、薄明のなかにおける、楽器との一瞬の接触――を渇望し、耳と指を極限まで研ぎ澄ませ、弦なき楽器に思いを凝らして音楽を探し求めているかのような、張り詰めた面持ちの人々――を通じ、彼の影響をたどることができよう。

そのときには、すなわちジョルジョーネ派が好むそのような偶発事においては、我々の暮らしにおける音楽ないし音楽に似たひとときが、つまり生活そのものが、一種の聞く行為として――音楽に、バンデッロ16の小説に、水の音に、過ぎゆく時に耳を澄ませることとして――捉えられる。しばしばそのような瞬間は、実際のところ我々にとって遊びの瞬間であり、我々は、人生のなかで最も取るに足らないと思しき細部が、思いがけぬ幸福を湛えていることに驚かされる。それは単に、遊びというものが、多くの場合、人々がおのれの持てる力を実際最大限に発揮する対象であるからというばかりではなく、そのようなとき、隷従により我々が被る抑圧が、日常的な注意力が緩和され、我々の外部にある事物が秘める、より幸福な力が解き放たれ、我々を支配するからである。それゆえにジョルジョーネ派は、音楽から、音楽に似た遊戯へとしばしば移行する。その行く先は、まるで子供が「仮装する」かのように、まだら染めの、あるいは刺繍と毛皮で風変わりに飾られた、奇妙な古いイタリアの衣装に身を包み、実生活において単なる演劇を公然と行う人々が身につける、あの仮面であり、巨匠は深い関心を寄せつつそれをデザインし、とりわけ手首や喉を覆う真っ白な麻布などを、実に巧みに描いた。

またこの渇いた土地で人々が幸福であるとき、そのそばには水があるに違いない。それゆえジョルジョーネ派においては、水の存在――井戸、大理石で縁取られた池、《田園の宴》において、女が、おそらくは、笛の音と混ざりあう、水が落ちる冷たい音に耳をそばだてながら、指輪をはめた手で、水差しから水を注いでいるように、水が汲まれ注がれる光景――が、音楽自体の存在と同じくらい特徴的であり、また同じくらい示唆的であるとさえいえよう。そして風景も水を感じ、水を喜びもする――風景は清澄さに満たされ、水の効果に満たされ、新たに大気を抜け降り下り、草原を走る川へと集まる、降ったばかりの雨に満たされている。大気もまた、ジョルジョーネ派にあっては、それを吸い込む人々と同じくらい生気に溢れており、そこに含まれるあらゆる不純物が焼き尽くされ、おのれに固有の要素を除いては、いかなる穢れも、浮遊する粒子も、そこにおいては存在を許されない、文字どおりの最高天エンピリアン17である。

その風景はちょうど、イングランドにおいて、ひなびた建物に感じられる言明しがたい上品さや、極上の芝生、群れて立つ木々、優美な効果をもたらすよう巧みに調節された土地の起伏といったものを指して、我々が「庭園風景」と呼ぶような代物である。ただしイタリアでは、あらゆる自然物は、あたかもその根底から金色の糸で編まれているかのようであり、身に纏う漆黒からそれを垣間見せる糸杉でさえ例外でない。またあのヴェネツィア派の画家たちは、砂金や金糸を用いて、細い繊維を厳かな人肌に織り込み、さらにそれを、漆喰で白く塗られた藁葺小屋の壁へと織り込み、制作を行ったように思われる。山々の荒々しい細部は、調和した遠方へと遠ざかり、地平線上にそびえる紺碧の峰がひとつだけ、暗い雨や川と並び、我々がアルプス山脈に求めるもののすべてであるところの、あのしかるべき寒冷さの、目に見える保証にすぎないものとして残っている。しかし、長々と伸びる谷を、羊の群れが取り囲むなかヤコブがラケルを抱いた谷を、その傾斜に沿って眺めるならば、なんと臨場感のある、広々とした空間であろうか! ヴェネツィア派の特徴として既に指摘したあの均衡の、風景と人物の――人間の姿とその付属物の――あの調整された一致の、これ以上に適切な例はどこにもない。それゆえ、そこにおいては人物も景色も、一方が他方の単なる口実には決してならない。

有用なフランス語表現を用いて言うならば、以上のごときが私の思う、ジョルジョーネに関する真の真実ヴレ・ヴェリテである。この表現によりフランス人は、真に考慮に値するいかなる人物や主題に関しても、ひとの注意を引くあらゆる複雑なものに関しても、それにまつわる厳密に考証された真実の狭隘な範囲の向こうにあり、かつその範囲を補うに違いない、より自由で持続的なあの印象を認めている。この点においてジョルジョーネは、あらゆる批評において我々が従うべき有益な一般的警告の一例にすぎない。ジョルジョーネその人に関しては、我々は確かに、「新たなるヴァザーリ」が、一見したかぎりではそれを用いて快い対象に対する我々の理解を単にかき乱し、我々が過去から受け継いだもののうちから、そこにおいて高い価値を有すると思しきものを取り去ったにすぎないように思われる、あの否定と除外のすべてに留意しなければならない。しかしながら、以上のごとき除外を完全に受け入れたからといって、この点を解決とみなすことはできない。適量に抑えられるかぎり、そのような除外は、我々の知識に加えられる真正さという塩にすぎない。そして、あれらの厳密に考証された事実のすべて以上に、我々は、例えばジョルジョーネによく似た一人物が、それにより永久に続く自己の影響力を拡大し、現に彼自身の存在を我々の文化のうちに感じられるようにしているところの、あの間接的影響に注目しなければならない。その単なる印象のうちにこそ、彼にまつわる本質的な真実、真の真実が存するのである。


底本:Walter Pater, The School of Giorgione, in The Renaissance: Studies in Art and Poetry, The Works of Walter Pater, 9 vols., London, Macmillan, 1900-1901, vol. 1, pp. 130-154.


  1. 底本には"good"と書かれているが、“gold"の間違いであろう。 ↩︎

  2. パドヴァにあるスクロヴェーニ礼拝堂の別称。 ↩︎

  3. アルフォンス・ルグロ (1837-1911):フランスの画家・銅版画家。1864年に渡英し、以後イギリスで活躍した。 ↩︎

  4. 第4幕第1場冒頭にて、マリアーナの前で少年が歌う歌のこと。 ↩︎

  5. 原注:クロウ、カヴァルカセッレ『北イタリア絵画史』。 ↩︎

  6. 今日ではティツィアーノの作とされている。 ↩︎

  7. ペッレグリーノ・ダ・サン・ダニエーレ (1467-1547):フリウリ地方で活躍した画家。 ↩︎

  8. ダンテ・ガブリエル・ロセッティ。 ↩︎

  9. 「ジョルジョーネによるヴェネツィア風牧歌のために」。 ↩︎

  10. 《田園の奏楽Concert champêtre》のこと。 ↩︎

  11. セバスティアーノ・デル・ピオンボ (1485-1547):ジョルジョーネの弟子。1511年ローマに赴き、以後ミケランジェロやラファエルの作風とヴェネツィア派の色彩を折衷した作品を展開した。 ↩︎

  12. パリス・ボルドーネ (1500-1571):ティツィアーノに師事。作品にはマニエリスム的傾向がみられる。 ↩︎

  13. パルマ・イル・ヴェッキオ (1480-1528):ヴェネツィアにおける盛期ルネサンスを代表する巨匠。 ↩︎

  14. カテリーナ・コルナーロ (1454-1510):キプロス女王(在位1474-1489)。 ↩︎

  15. カルロ・リドルフィ (1594-1658):画家・伝記作家。ヴェネツィア派画家列伝『芸術の驚異』の著者として知られる。 ↩︎

  16. マッテオ・バンデッロ (1480-1562):『短篇小説集』の著者。シェイクスピアは同短篇集に想を得て『空騒ぎ』『ロミオとジュリエット』を著した。 ↩︎

  17. 古代宇宙論における天の果て。純粋な火に満ちた場所とされる。 ↩︎