小林秀雄の印象主義、あるいは美の捉えがたさについて
優れた小説を読み終え、本を閉じた後に感じる、あの満ち足りた気持ちを何と言えばよいのであろうか。ひとを恍惚とさせるあの幸せなひとときに、私はいつも、心に満ちる朦朧とした感覚を、言語により明確化しようと試みる。私に与えられたもののすべては、手元にあるこのテクストに由来するはずである。ならば今私を満たしているこの感覚も、突き詰めればこのテクストに秘められた内的体系を解き明かすことにより、客観的な次元にまで明確化できるのではないか――しかしそのような試みは、多くの場合失敗に終わる。ときにはこの探求が一定の成果をもたらすこともあり、そのような場合、思索の結果は批評文に結実する。とはいえそのような稀有な作品さえ、読み返してみれば、最初に感じた印象の十分の一も表現できていないものばかりである。
芸術作品が我々にもたらす、あのいわく言いがたい充足感――それを〈美〉と呼ぶこともできよう。知性の手をいつもすり抜け逃れ去るあの美を、言語により表現することは、果たしてできるのであろうか。
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このような美の捉えがたさを、小林秀雄はよく心得ていた。彼の有名なモーツァルト論に次のような一節がある1。
美は人を沈默させるとはよく言はれる事だが、この事を徹底して考へてゐる人は、意外に少いものである。優れた藝術作品は、必ず言ふに言われぬ或るものを表現してゐて、これに對しては學問上の言語も、實生活上の言葉も爲す處を知らず、僕等は止むなく口を噤むのであるが、一方、この沈默は空虚ではなく感動に充ちてゐるから、何かを語らうとする衝動を抑へ難く、而も、口を開けば嘘になるといふ意識を眠らせてはならぬ2。
芸術作品がもたらす感覚は、言語を絶するものである。しかし我々は、作品がもたらす圧倒的な感動に抗いきれず、理不尽にも、どうにかしてその言明しがたい何かを語ろうと試みる。語りえないものを語ろうとすれば、言葉は現実を上滑りし、的外れなものにならざるをえない。そのような言葉は、たとえそれが真摯な情熱から口に出されたものであるとしても、対象との齟齬が生じている以上、確かに「嘘」と言われても仕方がない。芸術作品に魅了され、不条理な欲望を抱えた我々は、岐路に立たされる――嘘を忌避し正確な事実だけを述べるか、あるいは嘘になるのを覚悟のうえで、なおも語りえない美への接近を試みるか。
前者の道を歩む者がなすべきことは、芸術作品の客観的な検討である。確かに美そのものは語りえないかもしれないが、美をもたらす作品自体に対しては、理知的な分析が通用する。これはまさに学者たちが歩む道である。この方針であれば、我々は嘘をつくことなく、確実な真実のみを述べることができる。しかしこの道は、はたして初めに我々の心を奪ったあの言明しがたい美に通じているのか。否、と小林は言うであろう。
今日の樣に、知識や學問が普及し、尊重される樣になると、人々は、物を感ずる能力の方を、知らず識らずのうちに、疎かにするやうになるのです。物の性質を知らうとする樣になるのです。物の性質を知らうとする知識や學問の道は、物の姿をいはば壞す行き方をするからです。例へば、ある花の性質を知るとは、どんな形の花瓣が何枚あるか、雄蕊、雌蕊はどんな構造をしてゐるか、色素は何々か、といふ樣に、物を部分に分け、要素に分けて行くやり方ですが、花の姿の美しさを感ずる時には、私逹は何時も花全體を一と目で感ずるのです3。
美を湛えるもの自体を分析することは、必ずしも美に通じる道ではない。博物学者は美とは無縁である。花の構造を分析し植物学上の分類を定めたところで、花の美しさに近づくことはできない。このような知性と感性のすれ違いは、花をめぐる上記の例にかぎらず、芸術を対象とする学問にしばしば見受けられるものである。文学を例にとろう。文学研究者たちは、作品の核心を一挙に捉えようとはせず、明白な可知的事実に目を向ける。彼らが追い求める知識は、多かれ少なかれ周縁的なものである。彼らはバルザックの小説から、それが与える感動を汲み取ろうとするよりは、むしろ19世紀の風俗を知ろうとする。フローベールが描く古代世界を味わうよりは、彼が参照した資料を調査する。ランボーの『地獄の一季節』を読むときには、伝記的事実と照らし合わせずにはいられない。時代背景、執筆過程、作者の人生――確かにこれらの知識があれば、テクストの読解はより豊かなものになるに違いない。しかしそのような研究の果てに、作品を初めて読んだときに感じたであろう言明しがたい感動に形が与えられるかといえば、極めて疑わしい。結局彼らは、もっぱら知的な分析に頼ったために、彼らを最初に魅了したものを見失ってしまったのではないか。もっとも仮にそうであるとしても、彼らを軽蔑してはならない。彼らは真実だけを述べようと、嘘をつくまいと、誠実であり続けたのである。
小林秀雄が選んだのは、もうひとつの道、すなわち嘘を恐れず不確かな言語を紡ぐ道であった。彼の批評方法を端的に表す言葉があるとすれば、「印象批評」であろう。批評の歴史において、この呼び名は多くの場合悪い意味で使われてきた。ある批評が独善的な価値観に依拠しており、客観性を欠いているとき、ひとはそれを印象批評と呼ぶ。このように印象批評という語を蔑称として用いてきたのは、テーヌのような実証主義者や、あるいは小林の時代に猛威を振るったマルクス主義者など、批評は客観的な価値観に従ってなされるべきと考える論者たちである。小林にとって、彼らが振りかざす「客観的」理論は非本質的な飾りにすぎない。彼はむしろ、印象批評にこそ批評の本質を見る。ただしそれは「批評になつてゐない批評4」にとどまる稚拙な主観的批評ではなく、印象主義を徹底した批評である。
次の事實は大變明暸だ。所謂印象批評の御手本、例へばボオドレエルの文藝批評を前にして、舟が波に掬はれる樣に、纖銳な觧析と溌剌たる感受性の運動に、私が浚はれて了ふといふ事である。この時、彼の魔術に憑かれつゝも、私が正しく眺めるものは、嗜好の形式でもなく尺度の形式でもなく無雙の情熱の形式をとつた彼の夢だ。それは正しく批評ではあるが又彼の獨白でもある。人は如何にして批評といふものと自意識といふものとを區別し得よう。彼の批評の魔力は、彼が批評するとは自覺する事である事を明瞭に悟つた點に存する。批評の對象が己れであると他人であるとは一つの事であつて二つの事でない。批評とは竟に己れの夢を懷疑的に語る事ではないのか!5
芸術作品を論じることは、客体としての作品自体を語ることではなく、作品を見つめる自分自身を語ることである――いかにもボードレールらしい逆説であるとともに、ある種の詩人や批評家たちが共有する認識でもある。この詩人自身は、とある絵画評において次のように述べている。
詩情は絵画それ自体の結果である。なぜならば詩情は鑑賞者の魂のうちにあり、天才とはそれを魂のうちに目覚めさせることに存するから6。
ポーに始まり、マラルメ、ヴァレリーへと受け継がれていく、典型的な「効果の詩学poétique de l’effet」である。この見方によれば、芸術作品とは、鑑賞者のうちに詩的感興を呼び起こすよう、彼に及ぼす諸効果を緻密に計算して作られた一種の装置である。以上のような芸術観において、美の在り処は明白である。美は作品に内在するのではなく、作品の作用により鑑賞者のうちに生じる効果なのである。ゆえに美を言葉により捉えようとするならば、美を客観的な存在物であるかのように扱ってはならない。批評家に求められる仕事は、自己の内面に作り出された詩的状態を描き出すことである。それは作品鑑賞によりもたらされた不分明な感覚に明確な形を与えることであり、まさに「自覺する事」に他ならない。
もっともこのような内面の記述は、ともすれば作品を離れ、批評家の身勝手な独白に堕してしまいかねない。印象批評がある種の客観性を獲得しうるとすれば、それは作品から真実の印象を受け取ることによってであろう。小林は批評が生まれる瞬間を次のように描いている。
藝術家逹のどんなに純粹な仕事でも、科學者が純粹な水と呼ぶ意味で純粹なものはない。彼らの仕事は常に、種々の色彩、種々の陰翳を擁して豐富である。この豐富性の爲に、私は、彼等の作品から思ふ處を抽象する事が出來る、と言ふ事は又何物を抽象しても何物かが殘るといふ事だ。この豐富性の裡を彷徨して、私は、その作家の思想を完全に了解したと信ずる、その途端、不思議な角度から、新しい思想の斷片が私を見る。見られたが最後、斷片はもはや斷片ではない、忽ち擴大して、今了解した私の思想を呑んで了ふといふ事が起る。この彷徨は恰も解析によつて己れの姿を捕へようとする彷徨に等しい。かうして私は、私の解析の眩暈の末、傑作の豐富性の底を流れる、作者の宿命の主調低音をきくのである。この時私の騷然たる夢はやみ、私の心が私の言葉を語り始める、この時私は私の批評の可能を悟るのである7。
芸術作品は、様々な記号が入り乱れる不均質な構築物である。我々は作品を解き明かす鍵を求め、その中をさまよう。しかし複雑な体系に秩序を見出すのは容易ではない。多くの場合、彷徨は徒労に終わる。見出されたある観点により、作品の一側面は確かに説明できるかもしれないが、捉えきれなかった諸側面は、言い表せた範囲に比べ、往々にしてはるかに広大である。しかし粘り強い探索の暁には、作品全体を調和させる、ある視点がもたらされると小林は言う。こうして見出されるのが「作者の宿命の主調低音」である。それを耳にしているかぎりにおいて、批評家が抱く主観的印象は作者の事実と通じており、したがってこの幸福な共鳴のうちに語る言葉は、たとえ自身から発した「私の言葉」であっても、事実を語る客観的な批評の言葉である。
もっとも、熱に浮かされたようなこの言葉を、安易に信用してはならない。批評家が聞く「作者の宿命の主調低音」は、どれほど正しく作者の真実を捉えているのであろうか。おそらく、筆を執るときの批評家は、真実を掴んだと愚直に信じているに違いない。この音が聞こえてくるとき、それまで彼を悩ませていた「騷然たる夢」すなわち不完全な種々の仮説は消え去り、彼はまるで夢から醒めたかのように、絶対的な主調低音を見出すからである。しかし思考が冷静さを取り戻したとき、その主調低音もまた一種の夢にすぎなかったことに彼は気づくであろう。先に引用したボードレールの批評をめぐる一節で、小林は最後に「批評とは竟に己れの夢を懷疑的に語る事ではないのか!」と言っていた。感嘆符を伴い高らかに述べられるこの一文は、ボードレールの印象批評の説明である以上に、明らかに筆者自身の批評観の表明である。夢を見ている人は、自分が夢を見ていることに気がつかない。おそらく優れた批評家は、他人の作品の批評家である以前に、自らが綴る文章の厳格な批評家なのであろう。興奮に沸き立つ脳髄の片隅で、彼の自意識は冷静に思考し、自らを突き動かす鮮烈な印象に疑義を呈する。疑念に苛まれた批評家が、それでもなお書く手を止めないとすれば、それは自らが抱いた「夢」が真実である一縷の可能性に賭けているからである。
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小林はこの賭けに勝ったのであろうか――耳を澄ませて彼の「モオツァルト」を読むと、そこからは確かに、素朴で悲しい、モーツァルトの軽やかなあの旋律が聞こえてくる。「確かに、モオツァルトのかなしさは疾走する。淚は追ひつけない8」――オスカー・ワイルドは、「批評家とは、自らが抱いた美しいものの印象を、別の仕方ないし新たな素材で翻訳できる者である9」と言った。小林のモーツァルト論は、いかなる奏者とも異なる仕方で、観念の純粋さのうちに、あのト短調の弦楽曲を奏でている。
以下、文献表記にて次の略称を用いる。
『全集』:『小林秀雄全集』、全14巻+別巻2+補巻3、新潮社、2002-2010年。 ↩︎小林秀雄「モオツァルト」、『全集』、第8巻、55頁。 ↩︎
小林秀雄「美を求める心」、『全集』、第11巻、237頁。 ↩︎
小林秀雄「樣々なる意匠」、『全集』、第1巻、135頁。 ↩︎
小林秀雄「樣々なる意匠」、『全集』、第1巻、135頁。 ↩︎
Charles Baudelaire, Salon de 1846, dans Œuvres complètes, Claude Pichois (dir.), 2 t., Paris, Gallimard, coll. « Bibliothèque de la Pléiade », 1975 et 1976, t. II, p. 474. ↩︎
小林秀雄「樣々なる意匠」、『全集』、第1巻、136-137頁。 ↩︎
小林秀雄「モオツァルト」、『全集』、第8巻、74頁。 ↩︎
Oscar Wilde, The Picture of Dorian Gray, in The Picture of Dorian Gray and Three Stories, New York, Signet Classics, 2007, p. 3. ↩︎